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3月某日ナンバTOHOにて鑑賞。

嗚呼~残念無念。
ジャズに挫折する青年の、しかもミュージカル映画なんて「Fabulous Baker Boys」以来の期待だったのに・・
「ララランド」じゃなくて「アララランド」になってしまったよ・・・!
なんていうオヤヂギャグも弱弱しく聞こえるくらいガッカリしてしまった理由・・。

まあ、よかったのも悪かったのも、こういう映画ってのはないもので。

一言でいうと・・・




























「音楽が弱い!!」



さっきまで悩んでたのに、突然一曲、歌って踊ったら、アラ悩みが解決・・
なんていうのがミュージカル映画で、そこには普通の映画を超越する文脈があるわけです。
それでも、ミュージカル映画なんてものが、物語として受け入れられるのは、人は、やはり実際に
一つのメロディーで、悲しかったのがうれしくなったりと、急に音楽で気分が変わるような生き物だからだと思う。

それは、やはり、登場人物の歌う歌であり、ダンスである。

彼らの歌が、その映画の命であり、メッセージであり、他のストーリーは刺身のつまで、この歌曲シーンを
盛り上げるためにの存在である。

がしかし、である。

この映画を見ながら、もう見ながらも、忘れてしまうようなメロディー

これではいかんのですよ。
もう、見た後、人々が歌詞はわからんけど、口ずさんでしまうようなメロディーをプレゼントする映画でないと
ミュージカルとしては失敗なんである。

私は、もう見た直後から、何も残ってない。
というか、あのやったら目のでかいヒロインの歌う歌にも、最後まで感情移入できなかった。

そして、そして・・なんといっても。。

あの主人公の

「売れないジャズピアニストを演じる俳優のライアン・ゴズリングは、役作りのために3カ月間もの期間をピアノレッスンに費やし、全編吹き替えなしで堂々たる演奏を披露している」


というピアノ・・

昔からのジャスピアノファンからすると、あれは、頑張った素人のピアノであり、やはりジャズピアノには聞こえない。
なので、彼が「ジャズが云々」語ると、どうしてもシラケてしまうのだ。
無理せず、吹替を使って、ちゃんとしたジャズピアノを聴かせてほしかったと実に残念です。
ピアニスト以外は、ちゃんとプロの演奏でよかったんですけど、ピアノがあのアクセントでは、やはりジャスには聞こえない。
ジャズは、ブルーノートをきれいに弾けばいいってもんじゃないからね。

まあ、ストーリーも、美男美女が、ちょこっと夢に破れたけど、ちょっとがんばったら、やっぱり成功したね、てな具合ですし見るべきものはなかったなあ。

そもそも、誰の成長物語にもなってないので、この人たちが、なぜ別れたのか、さっぱりわからないまま物語は終わりを告げる。

結局、フレッド・アステアのミュージカル華やかなりしのあのリメイクをしたかっただけなのだろうか??

曲を全面やり替えれは、もっとノリノリの楽しい映画になって、冬の最後を乗り切れたかもしれなかっただけに残念である。

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1月28日 大阪駅ステーションシネマにて鑑賞。

ここは、親しい人しか見ないので、あまり誤解を恐れずに書けるのですが。
こういう宗教を扱った映画っていうのは、もう少し実はサスペンスフルな
心理映画を期待しておりました。

しかし、なんと!というか、あまり前ですが、そのようなエンタメではなく、遠藤周作原作の大真面目な敬虔なるクリスチャンを描いた映画でして、しかも3時間!

私は平均的な無宗教な日本人でして、イエスキリストの生誕祭には、デートでイチャイチャし、下の根も乾かぬお正月には、神社にて、名前も知らない神に手を合わせ、自分の身内の葬儀では仏様に手を合わせるという、八百万の神信仰ゆるゆるの人間です。
なので、このようにタイトな一神教というのが、そもそも実感としてないので、そのような現代の私がどういう風に感じたか、という感想であるということで書いてます。
(もし、通りがかりでこの文章を読むことになったら、決して、宗教や信仰を冒とくする意図はないということを理解した上で読んでもらいたいと思います)

感想その1「命よりも、神を称える信仰が大切であるという観念がどうしても受け入れられない」

この映画のそもそものテーマに、「命を捧げても、信仰を貫くべきか」「あるいは、信仰に逆らってでも、目の前の人を救うべきか」という葛藤があります。



当然、後者でしょ!!

特定の一神教の信者でない現代人の私には、そもそも、目の前の人を救うのが宗教の役割であり、神を讃えるためにあるものではなかろうという定義でいる私には、この迷いがどうしても、ナンセンスに見えてしまう。

ロドリゴが棄教を迷っている間に、小松奈々ちゃん含む村人が大勢死んでいくのを見て、「はよ棄教せんか~い!!」と心で叫んだのは私だけではないはず。

そもそも、人が、より良く「生きる」ためのものが宗教なのであり、人が死ぬためのものであってはならないでしょうが!!
宗教が幸福に生きるための手段ではなくて、目的化してるんだよなあああ。
と、元も子もないことを考えるのであった。
これじゃ、今の世界中で起きてるテロとそう変わりないでしょう。
命を粗末にするんじゃない~。

感想その2「そもそも、その国その国の文化なり、事情があるのだから、勝手にコソコソ布教活動をするべきでない」

鎖国してる国だから、もちろん表玄関から入ってはいけないのだろうけど、その国その国の文化なり事情があるのだから、自分たちの教えを広めよう、こんなに素晴らしい教えを広めるべきだ的な考えそのものが、傲慢なのではないか、と、思えて仕方ない。

純粋な村人を切支丹にして、彼らの魂を救ったというのが言い分だろうけど、結果、多くの犠牲を生み出しているわけで、勝手に人の国に入ってそんなことしないで欲しいというのが一日本人の感想である。

なんか、途中から、宣教師が猿の惑星に迷い込んで、どえらい目にあってる・・みたいな見え方もしてきたりして・・(汗)
登場人物の日本の役人が、どんどこ英語をしゃべり倒すのもさすがにアメリカ映画って感じがしてならない。


命はなくなったが、魂は救ったとか、まあそういう言い方もあるが、この映画を見ている最中、彼らがキリスト教と接触しなければ、ここまでひどい死に方をしなくても済んだのに、という思いがしてしょうがなかった。
自分たちが勝手に教えを広めれば、犠牲者が出るとわかった時点で、いったん国に引き上げて、戦略を練り直すとかなんとか、もうちっと頭使ってくださいよ。力技で布教する以外にもやり方があるはず。

感想その3「棄教すると、キリスト教徒的には、地位が低くなるから、目の前の村人を犠牲にしても、棄教しないのか??」

宣教師たちが、日本のキリシタンたちの命のカギを握っていて、棄教すれば、彼らを救える、とわかっていても、それが出来ないシーンが延々と続くんだが・・
私が一番理解できなかったのは、村人が海に放り込まれていく段階を目前にしながらも、まだ、「ゼウスの栄光」とやらにこだわって、棄教できないシーン。

ここまで、洗脳されてるのって、もはやオウムとかと一緒じゃないの?
目の前の人を見殺しにしてるとしか見えない。果たしてそう見える私がおかしいのか。いやそんなはずない。

なぜ??
なぜ、彼らの命をあなたが決定する権利があるのだ?
命はすべてゼウスのものだから?ゼウスを否定すると、神の国に入れなくなるから?
それって保身じゃん・・自分の我というか、棄教すると、村人は救えても、自分は地獄に落ちるから?
役人だって「形だけだから」って言ってるんだから、形だけ棄教して命は救って、心で信仰してもいいではないの。それも許さないって神様、そんなに小物なの??
名誉か、命か、っていう選択肢なわけでしょう。

このへんのくだりを見ていると、大名(イッセー尾形)が、キリスト教を「dangerous」というのもわかるわかる、もはや常軌を逸したカルトだわ、と思ってしまった。
勿論、教徒をリンチにかけるのも常軌に逸してるわけだが、信仰の自由なんぞが憲法で保障されている現在と違う世の中なんだから、あんな状況でも人の命よりもゼウスへの忠誠が優先される信仰の在り方に、恐怖を感じる。
もはやこのへんで我慢の限界~

私は人を生かす宗教がいい。人を殺す宗教はいらないのだ。
キリスト教って、自殺を禁じてるらしいけど、積極的な自殺はダメでも、神のために死ぬのはいいのか??
教義そのものはわからないけど、こんな解釈ってないと思う。


「民も生かして、王も生きる」という言葉があって、この言葉が好きなんだが、賢い王様は、「自分が死んで民を助ける」のではなく、「自分も生かして、民も救う」のだそう。

そういう思想は、キリスト教的犠牲精神とは相いれないのかもしれない。犠牲になって相手を救うってのは、好きになれない。

それって、「我」でしかないのでは・・・棄教するのは、信仰の敗北を認めることですし。


イノウエさんも話のわからない人ではないし、役人も、今も昔も、「さっさと仕事終えましょう」なありがたいスタンス。何が何でも信仰を改めろという体ではない。
このへんは、すごくニュートラルに描いてあり、好感が持てた。

ロゴリゴに棄教を持ちかけるのは、司法取引のようなもので、通訳とロドリゴの会話は一番この映画で、ひきつけられた。、
登場人物で最も感情移入ができたのがこの通訳さん。

もっとロドリゴが狡猾な人であれば、あれほど犠牲者は出なかったと思うが、純粋すぎたんだろう。
純粋すぎる人は、いつの世の中でも、苦労する。周りも苦労しますね。

亡くなった後、日本人の嫁が、こっそりロザリオを亡骸に入れるが、ロドリゴは沈黙を守り続けたが、一緒に暮らした嫁は、彼の信仰心が死んではいないことをくみ取っていたのだろう。

この映画は、信仰のために死んでいく人々に美を見なければ、評価できない映画なのだろうが、私はどうしても、喜んで死んで神の国に入ろうとする人の姿を美しいと思えなかった。
それは私が特定の宗教への信仰心がない人間だから、わからないのだろうと思う。
人って、誰しも自分なりの哲学なり宗教的なものは持ち合わせてることが多い。
宗教でなくても、趣味であったり、生き方なり・・。

「日本人は、自然の中に神を見る」というセリフは、まさにそうだ、と感じた。
特定の神だけを讃える一神教には、非常に限界を感じます。八百万の神信仰の国でよかった。
お天道様に顔向けできないことはしないように、というくらいにゆるい信仰で充分。今は。

そういう平和な国に住んでいる私、を実感した映画でした。















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11月9日。梅田ブルク7。
映画友達さんが快気祝いにとおごってくださった映画。

余命二か月と言われた母の物語なんて、ウェットに作られていたら見れたもんじゃない・・というわけで、そのようなお涙頂戴映画とは全く違う映画に仕上がり。

私の横の涙腺ゆるめの方はもちろん、涙腺固めの私でさえ、勝手に涙流れる映画でした。

とある田舎の小さな町で、銭湯「幸の湯」を営む一家。

父(オダギリジョー)は一年前にふらりといなくなり、母、双葉(宮りえ)がパートをしながら一人娘のあずみ(杉咲花)を育てています。

ある日、双葉は、末期ガンで、余命二か月と告げられる。

映画を見終わった後、映画友達さんが「これ、宮沢りえやから見れるけど、他の人やったら胸やけするわ~」と言ったのが、まさにそれ!

かなりコテコテの肝っ玉母ちゃんぶりを見せつけられても、胸やけしないのは、やはり、宮沢りえだの、オダギリジョーだのの、生活感薄目のきれいどころだから。

尾野真千子みたいな人だと、こういう風味には仕上がらなかったかもしれません。

映画の前半では、双葉の子育てストーリーが中心。後半は、少し違う風味になっており、旅先で出会う若者拓海(松坂桃李)が絡んできて、ファンタジックな展開になっています。
この前半の子育ての描き方が、非常にリアルで、ウソがなく、双葉の人間性を描き出せています。
思春期の子育て真っ最中の私が見ても、「ああ~そうそう」とうなづける。
子育てって、きれいごとじゃないから、きれいごとで描いてるシーンはすぐにわかってしまうんです。
「そんなことしないぞ」「そんなに甘くないぞ」みたいな感じで。
でも、不登校寸前の娘をたたき起こし、ベッドからひっぱり出して学校へ送り出すシーンとか、「わかるわかる・・」という感じです。戦いなんですよね。母親にとっても。
そのまま寝かしていた方が楽なのはあきらかだけど、そうは問屋が卸さない。
ここは、現役オカンの私。映画友達は、そのへんで、「現役引退」した自分を感じたそうです・・。

また、このあずみさんも、妙にガッシリした太目の足とかが、今時の女子高生というと広瀬すずみたいな妖精みたいな美少女でなくて、生活感があり、映画に信頼性を与えています。

私が感心したのは、夫がどこぞで作った?ってことで、双葉の家に転がりこんできた少女が迎えに来てくれる母を、アパートの前で待つシーン。
長時間待ち続けた彼女は、そのあと失禁してしまうんです。
でも、育児シーンというのは、結構こういうことがありまして、この後、双葉ママは、
「全部出た?」

と、優しく聞きます。

ああ、この人はお母さんなんだなあ・・と、心から感心しました。
このへんの育児の描写は、一歩踏み込んだ映画だなあと思います。
だから、後半の少しファンタジックなストーリーも絵空事にならないですんでいると思いました。

こんな風に、双葉りえママのリアルな肝っ玉母さんぶりが描かれているので、映画の後半で、あずみの産みの母でないことが明かされると、観ている側はかなり、驚きます。

キリスト教社会では、子供を引き取って実の子として育てるのは珍しくはないのですが、儒教国では、やはり血の絆というものが重要視されますから。

しかし、この映画で描かれるのは、人は、産んだからといって、母親になるわけではなく、それよりも、一人の人から逃げ出すことなく、育てる過程で母親になっていくのだ・・ということです。

血がつながっているいないは関係なく、子育てができる双葉は、自分自身も母親に捨てられた子でした。

最後に、実の母に会いたいと興信所で住所を調べると、そこには再婚して、新たな家庭で持った娘とその孫のおばあさんの顔をした母がいました。

双葉のことは知らない、そんな娘はいないと、彼女は拒絶します。

新しい家庭に知られるのが怖かったのか・・。
私は、決して、この人も、自分の産んだ娘を忘れてしまったわけではないと思います。
ただ、自分の捨てた娘に、今更会わせる顔がない。
そして、罪悪感を呼び起こさせるものを人は恐れるので、会うのが怖かったのではないかと思います。
それで、とっさに、「そんな娘はいない」と言ったのではないでしょうか。

このへんの作りも、安直に流れない、シビアな目線を感じまして、なかなか監督の力量を感じるわけです。
しかし、会わなかったからこそ、この母親は、自分の捨てた娘の影から余計に逃れられなくなったのではないかと思います。
リアル娘からは、逃げられても、自分の罪悪感からは逃れられないでしょうから。

双葉は、捨てられた子供だからこそ、そんな子供の気持ちがよくわかる。
だからこそ、あずみも、もう一人の子にも、愛を注ぐことが出来たのでしょうねえ。
私は、到底手が届かないほどの、愛を持ったお母さんだと思います。

思春期の子育て真っ最中の私。
一日に一回は、自分の中の愛らしきものは枯渇します。
もはや、放り出せないという責任感だけで、日々やり過ごしています。
思春期相手に弱気は禁物。

双葉の、あの細い腕で、最後までやりきった姿が、これからも私を励ましてくれることを望みます。

ただ、映画の最後、集まった彼らが双葉のお葬式のシーンが延々と映し出されるのですが、このあたりは蛇足だったかな?
それよりも、双葉の最後は、ポンと、飾られた遺影で処理し、
前半に描かれた、あずみの学校生活でのシーンや、それぞれのその後の物語に時間を使って欲しかったと思います。
高校生にとって、学校が生き難い場であることは、相当の一大事です。
例えば、あずみを標的にいじめをする雑魚が目に入らなくなるくらい、何か、自分の進路を見つけて邁進するあずみの姿。


そういうものを映し出して欲しかったかな。

タイトルに使われている「愛」という概念が、長年生きてきているけど、私には、未だによくわかりません。
執着であったり、性愛であったり、愛という名の元に、形を変えて、人はさまざまな営みをするわけですが、一つ定義できるとすれば、この映画で描かれているように「最後まで見捨てない」のが愛というものの一つの形であるのではないでしょうか。
そう定義すれば、まだ私は、愛というものを完遂を、何一つ、完遂できていない、そんな気がするのです。

余命二か月と言われたら、さて何をするか?
人生も映画も長けりゃいいってもんじゃないと、つくづく思う今日この頃。

双葉は二か月の締め切りだったからこそ、これだけのことが集中力を持ってやり切れたのかもしれません。
双葉の二か月の命は、ただ、自分の残した家族の、これからのために使い切りました。
ある種の聖女でありながらも、全く嘘くさくなく、もしかしたら、そのへんにもこういう人いてくれるかな?と思わせてくれる映画でした。
あっぱれです。







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